好きの反対が「無関心」なのは、好きも嫌いも、元を辿れば「執着」だからだと思う

結論はタイトルの通りである。
なんとなく、ふと思っただけの話ではあるのだが。

暇つぶしがてら「そういえば『好き』と『嫌い』が同一視される理由を深く考えたことがなかったなぁ」という考えから、「『好き』の反対語はなぜ『無関心』なのか?」と、なんとなく考えたのだ。

はたから見たら「そんなの分かっていて当然だろう」と思われる話であり、巷でも「本当に嫌いだったら『嫌いなもの(人間を含む)』は眼中にない」とよく言われている話であるため、わざわざ話題にしなくてもいいのだが。

「好き」にしろ「嫌い」にしろ、特定のもの(人間を含む)を考えずにはいられない状態になっているから「好き」や「嫌い」などの感情が生まれるんだし、どういう感情が自身の心の中に渦巻いているにしても、それを考えずにはいられなくなってる状態のことを「執着」だと、人間は名付けたわけで。
肯定的な感情にしろ、否定的な感情にしろ、特定のものに執着をしているのが原因で生まれるのだから、たとえ「嫌い」という感情だったとしても執着が原因で生まれているのなら「自分が執着しているものが気になって仕方がない状態・状況」なわけで、それは「好き」が生まれる原因と同じなのである。

いい意味で執着をしているのか、悪い意味で執着をしているのか、執着のとらえ方は状況によって様々ではあると思っているのだが、どういう理由にしろ執着は執着であって、執着以外の何者でもないんだよなぁ……と。

そういう意味で、本当に嫌いなものには眼中になく、「『好き』の反対語として無関心が使われるのだろうなぁ」と思うのだった。