【映画評論】感銘を受ける、台詞があった

ブログに書くための話のネタがほしく、最近はアマプラで様々な作品を観るようにしているのだが。

今回は「幻肢げんし」という、映画のわりに少し短めの作品を観た。

幻肢

幻肢

  • 吉木遼
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元々、島田荘司さんが書いた小説みたいで、それを原作にした作品であるらしい。
それを全く知らず、なんとなくの興味で観てみようと思い、今回の鑑賞に至ったのだが。

90分ほどで終わる作品であるため、映画のわりにさくっと観終えられていいのでは?と思った。

あらすじ

あらすじは下記の通りである。

突然、雅人は病院のベッドで目覚める。自分に何が起きたのかわからない。見舞いにきた友人の亀井は「おまえは車ごと崖から落ちた。」と告げる。精密検査の結果、頭に外傷はなかった。しかし、雅人には事故当日の記憶がない。(中略)そんな時、亀井から恋人の遥と車でデートにでかけて事故にあったと言われる。
自分に恋人がいたこと、名前が遥ということ、全てを忘れてしまっている雅人は衝撃を受ける。恋人のことを思いだせない彼は徐々に精神状態が不安定に。携帯の画面に残っている遥の写真にも覚えがない。精神障害になり無為な日々を過ごしていたある日、亀井が雅人に意外な話をもちかける。
引用:公式サイト

少しミステリー要素のある作品であるため、90分ほどしかない作品のわりに見ごたえのあるものだった。
映画でこれだけ見ごたえがあるのなら、原作の方はもっと読み応えのある作品なのだろうと思い、興味を持った。

この映画を観て、個人的に印象的だったところは、主人公の恋人だという遥の「私は、林檎にたっぷりと栄養を与えられる、葉のような存在になりたいの。たとえ、その林檎を赤くできなくても。」という台詞だった。

感想

主人公の雅人はTMS治療というものを始めたのがきっかけで、少し記憶が戻るのだが。

取り戻した記憶の中で、恋人である遥が、林檎農家をやっている実家から林檎(赤林檎・青林檎両方)が届いたといって雅人にその林檎を少し分けるシーンがあり、その時に、雅人との会話の流れで「赤林檎は意外に甘くない(酸っぱい)んだよ」というニュアンスの話を遥がするのだが、その話の流れで「私は、林檎に~」という台詞を話すのだ。

遥いわく、林檎自身に太陽の光を当てるため木の枝を剪定するのだが、枝を剪定して葉っぱが少なくなる分、光合成をする葉っぱの割合が(青林檎を作る時よりも)少なくなり、結果的に赤林檎の甘味成分が青林檎よりほんの少し少なくなるそうな。
青林檎を作る時は、わざわざ日光に当てて実を赤くする必要がないため、必然的に「『木陰で』林檎を育てるシチュエーション」となり、光合成をする葉っぱが赤林檎の時よりも多くなる→結果的に青林檎の方が甘くなりやすいらしい。

そのことから、遥自身も、生きていく(他人ひとと関わる)上で、少しでも多く光合成をして「林檎に栄養を与える葉っぱ」のような人間になりたいと思っているのだろう。

自分の場合、自分自身に対して「少しでも多く光合成をして栄養を蓄えたい」と思っているため、遥のような、林檎に栄養を~という台詞を簡単に言えてしまう懐の深い人間には足元にも及ばないな、と思ってしまったのだ。

自分の「『自分自身』に対して栄養を蓄えたい」という話は、自分がまだ未熟なあまり幼稚な言動をすることが多々あるため、少しでも知識を増やして教養のある人間になりたいという思いから「『自分自身』に対して~」と思っているのだが。

映画を観る限り、遥がどういう家庭環境で育ったかは分からなかったが、それなりに賢く、元々の人間性がいい「できた人間」なのだろう、と映画を観てなんとなく思った。