「愛」の定義とは?

「『ありのままの自分』を愛してほしい。」とは、一体なんなのだろう?と思う。

いや、言葉の意味は分かるのだが。
そういうことではなくて。

「愛すること」「愛されること」とは、なにもかもを好きになることでもなければ、なにもかもを好きになってもらうことでもないよね?と思ったのだ。

「愛」の定義とは?

「愛」の定義なんて人によって違うはずだから、なにが正解でなにが間違っている、ということはないと思うのだが。

ただ、自分が「愛」を定義するならば、許すことやスルースキルのことだと思っている。

相手への好意がある前提での話だが、性別や関係性を問わず、好意を持っている相手に対して「多少『ここが合わない』ということがあってもスルーできること」だと思っている。

友達や恋人(配偶者)など、どういう関係性の相手でも、他人だから多少なりとも合わない部分は必ずあるが、その「多少なりとも合わない部分」を

「許せるからいいか!」
「合わない部分もあるよね!」

と、受け流すことができるものを「愛」と呼ぶんではないかと。



自分が小学校高学年ぐらいから中学生ぐらいの頃にかけての話だから、16〜13年前ぐらいのこと。

バラエティー番組で、芸人さんが「『ありのままの自分を愛してほしい!』っていう女いるやん?」という話をし始めた。
だいぶ前のことだから、なんの番組でどの芸人さんが言っていたのかは忘れてしまったのだが、有名な芸人さんだったのは覚えている。

「『ありのままの自分』を愛してほしい!」っていう台詞って、まぁいえば畑から掘ってきたばかりの洗いもしない大根を「そのまま食え!」って言ってるようなものやから、せめて洗って〜って思うんや。

これは原文ではないけれど、こういう趣旨の話をしていて、例え話がわかり易すぎるがゆえに衝撃を受けた話だから今でも覚えている。

土は見ることができるけれど、さすがに口に入れる(食べる)ことはできない。

人間の合わない部分だって、「合わない部分」を認識することはできるけれど、受け入れるのは不可能だ。

だって、掘りたてたてほやほやの大根でいう、土の部分だもの。
土を食べられないのと一緒で、合わない部分は受け入れられない。

「人間」という生き物では一緒でも、「個々の存在」は違うものだから、合わない部分があっても仕方がないし当たり前だと思っている。

どれだけ仲のいい友達でも、どれだけ好きな恋人(配偶者)でも、「個々の存在」でいえば別の存在だから、合わない部分があるのは普通のことだと思っている。

取り繕う必要性

だからといって、なにもかもを取り繕う必要はないと思うのだ(大根でいう、煮物にするほど頑張る必要はないのでは?と思っている)。
煮物になったからって全人類に愛されるわけではないし、どんな自分でも嫌われる時は嫌われ、好かれる時は好かれるのだ。

人間同士の相性や縁で、変わってくると思う。

何度も言うけれど、相性がいい相手だからって多少なりとも合わない部分があるから、それを「全部を好きになって!」は違うと思う。
ただ「全部を好きになって!」が駄目だからといって、全部を取り繕うのもまた違うと思っている。

人によって「愛」の定義は違うと思うが、相手への「愛」があれば「『ありのままの自分』を愛してほしい!」なんて言わなくても愛してくれると思うし、自分を取り繕うことをせずに相手との仲を深めることをできるのでは?と思うのだった。