自分にとって食事とは、苦痛なものなのだ

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今に限った話ではないのだが。

昔から、食事をすると「死にたい」という気持ちが生まれてしまうのだ。

トラウマ

虐待が当たり前の家庭環境だったせいで、食事中でも平気で父親が怒鳴り散らしてくるから(※両親はすでに離婚済み。私は母と暮らしている)、自分の中では「食事=生きる気力を失わせるもの」という存在になっているのでは?と思う節がある。
家での食事だろうが外食中だろうが関係なく、父親はようしゃなく怒鳴る人間だったから、幼少期から食事はみんながすることだから「やむを得ず」自分もするという感じでしていた。

今でも「生命維持のために『仕方なく』食べている」という感覚でしかなく、お腹は減るんだけれどなにを食べていいかが分からない、「美味しそう」とは思うんだけれど「美味しい」のその先(『食べてみたい』)を思うことが一切ない状態となっている。

しかも、それが年々ひどくなっているために、食事をし忘れることが増えている。

低血糖か貧血であろう目眩を起こして、初めて食事をしていないことに気づくことが増えてしまい、いつか本気でぶっ倒れるだろうな……と危機感を覚えることが増えてきた。

だからといって、食事は「生命維持のために仕方なくやっているもの」でしかないから、食後は必ず死にたくなる。
吐きはしないんだけれど、「なんで食べてしまったんだろう。」「死んでしまいたい。」という気持ちが自分の中でぐるぐる回ってしまい、うつっぽくなる。

本格的な摂食障害ではなくても、摂食障害の入口付近をうろうろしている状態に陥っているのだと思う。

「食」への興味

そもそもの話、自分は昔から「食」に対しての執着はそんなに強くなかった。

好きな食べ物はあるから、それが食事に出ると嬉しいけれど、だからといって「食」へのこだわりは少なかったから「とりあえず嫌いなもの以外だったらなんでも食べる。」「ちょっとぐらい食べられなくても大丈夫。」と思っていた。

それにプラスして、めちゃくちゃ食が細いわけではないけどめちゃくちゃ食べるほどでもなかったから、1人前より少し少なめ(0.7~0.8人前)ぐらいがちょうどよかった。
今では0.5~0.6人前ぐらいで「(満腹感はないけど)もういらない。」ってなってしまうから、昔より食べられなくなっているのだが、とにかく食への執着があまりない上に1人前より少し少なめの量でちょうどいいのだ。

だが、うちの母親がしっかり1人前を出してくる人で、ちゃんと食べないとダイエットをしているのか疑ってくる(しまいには『ちゃんと食べなさい!』と怒ってくる)ため面倒だった。

(そんなにいらないけど)食べなきゃいけない。
(そんなにいらないけど)ダイエットを疑われたくない。
(そんなにいらないけど)怒られたくない。

そんなことを思いながら食事をし続けていたせいなのか、因果関係は不明なのだが、「食事をするのが面倒くさい。」という理由で食事を拒絶するようになってしまった。



「食事をしなきゃいけない。」と思うのが面倒くさい。

食事を用意しなきゃいけないのが面倒くさい。

食べ物を口に運ぶのが面倒くさい。

食べ物をかじって咀嚼をしなきゃいけないのが面倒くさい。

咀嚼をした食べ物を飲み込むのが面倒くさい。



「食事」に関することが、全部「面倒くさい。」と思うようになってしまった。

飲み物は飲める

だからといって、水やお茶などの「飲み物」と呼ばれるものはだいたい飲めるのである。

たぶん「食べ物ではないから」という認識が無意識にあるのだと思うが、飲み物はなにも思わずに(むしろ自分から好んで)がぶがぶ飲めるのだ。
食卓にもお茶は用意されていたから、飲み物にもトラウマが植えつけられそうだが、不思議と大丈夫なのだ。

それよりも、食事の量よりも飲み物を摂取しているから、飲み物で生命維持をしているようなものになっているのだ。

食事は食事で「生命維持ができる程度」には食べているんだけれど、それを上回るほどの飲み物を摂取しているから、食事と飲み物の立場が逆転しているというか。

普通なら食事に+αとして飲み物が存在しているようなものなのに、自分の中では飲み物に+αで食事がついているせいで「飲み物と+α(食事)で生命維持をしている状態」となっているのだ。

一般的な感覚だったら、おかしいと思うのだが。

昔から「食事は『やむを得ず』するもの」だった自分からしたら、これが「普通」になってしまったのだ。

食事は「やむを得ず」するもの。
食事は面倒くさくてやりたくないもの。
唯一「飲み物」だけは好んで摂取できる。

この概念が小さいうちに植えつけられてしまったゆえに、一般的に「おかしい」と思われる概念が普通になってしまったのだ。