人生とは、選択肢が多いものである

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小5の時と中3の時の担任は、今まで生きてきた中で、いちばん信頼できる教師だった。

今思うと、その担任のどちらかに、自分が両親から虐待を受けていることを話せばよかったのかも?と思う時がある。
「どうせ死ぬから。」と投げやりになっていたせいで、 虐待のことは一切言わずに学校を卒業、その担任との関わりが途絶えてしまったのだが。

でも、たまに、ふと思う。

「なにか話していたら『なにか』が変わっていたかも。」と。

面倒くさいことを、避けた結果

小学生なりに、「虐待のことを話したら大事おおごとになる。」ということを分かっていたのもある。

  • 先生方の間で「問題」として扱われることによって、先生から呼び出される機会が増えること。
  • 先生に呼び出される機会が増えることで、生徒の間で噂になること。
  • 児相に通報され、そこの人が家にくること。
  • 田舎だから、児相の人が家にきたことが、近所の人に一瞬で噂が流れること。


小学校が特に、田舎を凝縮したような「噂が一瞬で流れる性質」があったために、虐待のことで呼び出される機会が増えたら色々と勘ぐられ、噂が流れることが分かっていた。

(誰かが転校するたび、『あそこの親が離婚したから転校したんだって。』という噂が児童の中で流れていたほど。)

今思うと、信頼していた担任なら上手くやってくれるはずだから、「噂が流れること」については気にしなくてもよかったのだが。
とにかく大事おおごとになるのが嫌い(『面倒くさい』という意味で嫌い)だったから、児相のこともひっくるめ、「絶対に誰にも言ってはならない。」と密かに思っていたのだ。

精神的苦痛を与えることも、復讐になるのに

今、大人になって思うことは「『噂になること』も親への復讐になる」ということが容易に分かることだ。

物心がついた頃には、すでに「親を殺すか自分が死ぬか」の2択で悩んでいて、「親を殺すこと」しか復讐の方法がないと思い込んでいた。
今思うと、「虐待が噂されること」も復讐のひとつだと容易に分かることなのに、なんせ思い込みが激しかったせいで「親を殺す=復讐」という思考しかなかった。

噂程度のものでも、精神的苦痛を与えることができるのに。

「目には目を、歯には歯を」の精神でいれば、復讐なんていくらでも思いつくはずなのに。

ある意味、自分も愚かな人間だと思う。

正解と、不正解

過去の選択を後悔しても遅いのだが。

今の自分は

「信頼できる担任に話をしなかったこと」
「『復讐』の内容に思い込みがあったこと」

が「不正解を選んでしまった。」と思っている節がある。

だからといって、「正解だと思っている方」を選んだ人生を歩んだとしても、「不正解だと思っている方」を正解だったのかも?と思ってしまうのも、目に見えている。

なにが正解で、なにが不正解なのか、誰にも分からないが。

ただ、「選択のひとつ」として、信頼できる担任に虐待のことを話していたら?と思う時がある。