気力や元気は、時に「死」へ向かうための原動力に変わる

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自ら死を選ぶ人は、意外に「元気そうな姿」のまま、唐突に死んでしまう。

「死ぬために必要な気力」があるからこそ、その気力が「元気そうな姿」に見えてしまい、唐突に死んでしまったような錯覚をするからだ。

気力や元気は、時に危ない

本格的に病んでしまうと、あまりに病みすぎて「死ぬために必要な気力」すらなくなり、逆に死なない(死ねない)状態になる。
死にたいほど苦しくて、死にたいほど辛いのに、あまりに病みすぎると「死ぬために必要な気力」が皆無になるから逆に死ねなく、それがまた生き地獄へつながる。

「死ぬぐらいなら生きたらいい。」という意見もあるだろうが、「生きるための元気がある」ということは「死ぬための元気も持ち合わせている」ということを知ってほしい。

生きることと死ぬことは紙一重で、死ぬための気力があるから生きることができ、生きるための気力があるから死ぬことができる。

生と死は、隣り合わせである。

優しさだけではどうにもならないが

プロレスラーの木村花さんの訃報が話題になった当時、全く存じ上げない方で申し訳ないと思いつつ、「これからも生きてほしい存在だったなぁ……。」と思ったことを覚えている。

「辛い思いを我慢しながら生きていてほしかった。」という意味ではなく、「色んな人に愛されている方がいなくなるのはもったいない。」という意味ではあるのだが。

自分は機能不全家族で育ったからか「自分のような生きる価値のない人間なんて死んだ方がいい。」という考えをしがちなのだが、自分のような~と考えるからこそ「他人から愛されている人は愛されに愛されまくって生きてほしい。」という思考になっているのだ。
他人が愛されているのを見て、親から愛されなかった自分を癒そうとしているのもあると思うのだが、本気で「他人から愛されている人は『他人からの愛を貰えるほどのなにか』を持っている『価値のある人間』」だと思っているから、そんな方が自死を選ぶなんて……と思ってしまうのだ。


こんなことを書いたからといって、故人が生き返るわけではないのだが。

自死を少しでも減らすために、せめて「当人に自死を選ばさない環境」が整っていればいいのに、と思った。